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相模原市の旅行記【歴史・文化・芸術】

相模原市の旅行記
相模原 ,相模長津田 小田原北条氏の外交僧として活躍し秀吉・家康に評価された板部岡江雪斎後裔で旗本岡野氏の菩提寺大林寺散歩
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滝山氏照
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2016/09/04~" . 2016/09/04
旅行テーマ 【歴史・文化・芸術】

相模長津田 小田原北条氏の外交僧として活躍し秀吉・家康に評価された板部岡江雪斎後裔で旗本岡野氏の菩提寺大林寺散歩

慈雲山・大林寺(神奈川県横浜市緑区長津田)はJR横浜線又は東急田園都市線の長津田駅南口から徒歩5分の地にあり、天正19年(1591)より相模国の長津田・栗木に知行を得た旗本岡野房恒(おかの・ふさつね)創建による臨済宗の寺院です。 岡野氏は徳川家の家臣として長津田を支配してきましたが、その祖は北条氏康(ほうじょう・うじやす)から氏政・氏直と三代に亘り小田原北条氏に仕え、氏政時代には評定衆などの重職を勤め、対外交渉などでは外交僧として活躍した板部岡江雪斎(いたべおか・こうせつさい、1537?1609)です。 江雪斎は伊豆田方郡狩野荘田中出身の僧侶で、頭脳明晰が故に氏康に見いだされ右筆として仕えやがて領内の寺社を管理する寺社奉行を務め、氏康の時代には嗣子がいない家臣の板部岡氏の跡目を継ぐことになります。 持ち前の理路整然とした思考により外交僧として手腕を発揮したのは、天正10年(1582)織田信長が本能寺の変で横死した後の信長遺領である信濃・甲斐支配を巡る徳川家康との戦い(天正壬午の乱)においてで、北条・徳川双方対峙するも膠着した戦況が続き、江雪斎はこれを解決すべく5代当主氏直に代わり和睦交渉に臨みます。 交渉の結果、信濃・甲斐を徳川領と認め代わりに上野を小田原北条領と認めさせ、更に家康娘の督姫を氏直の正室に迎えることで同盟関係を成就させています。 そして畿内統一を果たし更に四国・九州を平定した豊臣秀吉との対立が深刻さを増してくると江雪斎は北条家一族の氏規(うじのり)と共に秀吉に拝謁し当主らの上洛を約し関係修復に尽力します。 天正18年(1590)秀吉の小田原城攻めにおいて北条氏は滅亡、氏政並びに氏照は切腹、家康を義父とする氏直は高野山へ配流、江雪斎は死罪を免れ以降は秀吉の御伽衆として仕え姓を岡野と改めることになります。 そして秀吉没後は徳川家康に主家を変え、関ケ原の戦いに際しては小早川秀秋(こばやかわ・ひであき)を取り込み秘密交渉にて家康に味方するよう画策しその結果として東軍の勝利に大きく貢献します。 岡野家墓所入口には説明板が建っており、下記の通り記されています。 「横浜市地域史跡 旗本岡野家歴代の墓所             平成4年11月1日登録 江戸時代初期、小田原北条氏の重臣であった岡野融成の嫡子、房恒が天正19年(1591)長津田村を知行し、菩提寺として大林寺を健立しました。 以後大林寺を歴代の墓所として幕末に及び、墓域には灯篭7基を含めて33基を数えます。 融成供養塔  寛永18年(1641)建立        33回忌。 房恒逆修者  明歴2年(1656)建立          平成5年3月                  横浜市教育委員会」
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相模原 ,相模原当麻 武蔵守護代大石定久の庇護のもと創設、八王子城主北条氏照娘貞心尼の中興、徳川幕府老中青山忠俊の再中興による天応院散歩
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滝山氏照
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2015/11/22~" . 2015/11/22
旅行テーマ 【歴史・文化・芸術】

相模原当麻 武蔵守護代大石定久の庇護のもと創設、八王子城主北条氏照娘貞心尼の中興、徳川幕府老中青山忠俊の再中興による天応院散歩

JR相模線原当麻(はらたいま)駅から徒歩7分、天応院(てんのういん、神奈川県相模原市南区下溝)は戦国時代後期八王子城主であった北条氏照(ほうじょう・うじてる、1531?~1580)の娘である貞心(ていしん)尼によって中興開基された漕洞宗寺院です。 境内に建立の本堂落慶記念石碑に刻された天応院縁起は次の通りです。 「漕洞宗龍渕山天応院縁起 本堂・客殿・庫裡の新築は、平成十九年より工事が着手され、平成二十三年四月に落慶式を迎えました。(総工費約五億円) これは御信徒の絶大なるご支援の賜物であります。 歴史をさかのぼりますと、今より五百二十年前、戦国時代に、八王子を中心とした大石定久公(号道俊)の統治により、心源院・天応院等が秀雲永獄大和尚を開山にして、明応四年建立されたと考えられます。虚空蔵菩薩を本尊とし、九石七斗の御朱印をたまわり、五世太陰師の時代、北条氏照公の姫、貞心尼により中興を成し遂げ、六世寛応・七世脱今師は禅師号の特賜を受けております。九世長育、十世日州師の時代、徳川幕府の老職(老中)であった青山氏(忠成・忠俊公)の帰依を得て再中興されました。 明治になり行政役所の二十大区の役所、下溝学校、相模原警察署の前身が当院に築かれました。爾来住職三十代の星霜を経て今日の盛事を見るに至りました。  平成二十四年二月吉日 天應院三十世 天室和男 合掌」
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相模原 ,相模上溝 武蔵国守護代大石定久が北条氏照に所領を譲り出家し新月斉道俊と称し開基した宝光寺散歩
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滝山氏照
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2015/11/22~" . 2015/11/22
旅行テーマ 【歴史・文化・芸術】

相模上溝 武蔵国守護代大石定久が北条氏照に所領を譲り出家し新月斉道俊と称し開基した宝光寺散歩

JR横浜線橋本駅を起点とする相模線上溝(かみみぞ)駅より徒歩15分にある宝光寺(ほうこうじ、神奈川県相模原市中央区上溝)は関東管領山内上杉氏に仕えた重臣で武蔵国守護代を任じた大石源左衛門定久(1491~1549)開基の漕洞宗寺院です。 そもそも大石氏は木曽義仲(きそ・よしなか)を始祖とする由緒ある出自と言われ、南北朝時代初期において足利尊氏(あしかが・たかうじ)と実弟直義(ただよし)が対立し観応の乱では直義側に付いた執事上杉憲顕(うえすぎ・のりあき)が尊氏の追及を逃れるため信濃国にて失意の時期を過ごした時代から側近として仕えていた譜代です。 尊氏死後初代鎌倉公方足利基氏(あしかが・もとうじ)のたっての指名によって憲顕は関東管領職に復帰し罪を許され上野国・越後国の守護職を回復、応永23年(1416)の上杉禅秀の乱平定後は憲顕兄弟から派生した宅間家・犬懸上杉氏の没落に伴い関東管領職を独占、上野国を本拠とし、武蔵・伊豆に勢力を拡大、上杉氏につき従ってきた大石氏も四宿老の一人として活躍、歴代大石氏は武蔵国守護代を務めていました。 永正13年(1516)、相模守護三浦氏を降し相模国を統一した小田原北条氏はその勢いで武藏国南部に進出し、これに脅威を感じた山内上杉憲政(うえすぎ・のりまさ)及び一族の扇ケ谷上杉朝定(うえすぎ・ともさだ)は斜陽の古河公方足利晴氏(あしかが・はるうじ)とともに連合を組み文字通り関東の覇権を争うべく河越の戦いにて挽回をはかりますが逆に大敗を喫し朝定は討死、晴氏は古河に遁走、また山内上杉氏当主憲政は這う這うの体で上野国平井城に退きます。 この戦いにより旧主勢力の上杉氏は立ち直りできず没落、新興勢力の小田原北条氏の進攻は一層活発化の様相を呈するなか、上杉氏重臣らを始め従属の国人たちははこのまま上杉氏に従うのかそれとも小田原北条氏の傘下に入るのかの選択に追い込まれます。 武蔵国守護代として多摩西部(多西・多東地区)を中心に青梅・所沢・座間を支配していた当主大石定久は四面敵の状況で武藏に取り残されて安穏ではなく局面打開のため重大な決意をせざるを得ず、本領の安堵を求める立場から主家の山内上杉氏に叛き小田原北条氏と和議を臣従する事を決断します。         その結果として嫡男憲重(のりしげ)の存在ありながら敢えて三代当主氏康(うじやす)三男の藤菊丸(大石源三を経て北条氏照)を娘比佐(阿豊)の婿養子として迎い入れ、定久の居城であった滝山城を譲り自らは入道として新月斎道俊(しんげつさいどうしゅん)と号し同国五日市の戸倉城に隠遁することになります。 境内の看板に掲げてある「宝光寺」と題する説明内容は次の通りです。 「宝光寺(ほうこうじ) この寺は漕洞宗下溝天応院の末寺で、山号を「秀珍山(しゅうちんざん)」といいます。縁起によると、天文年間(1532~1554)、当寺、地頭であった大石源左衛門定久(おおいしげんざえもんさだひさ)が出家して新月斎道俊(しんげつさいどうしゅん)と称し、娘の向西(こうさい)尼とともに上溝本郷の地に「向西庵」という庵を結んで修行をしていたといわれています。その後、慶長年間(1596~1615)に名主の佐藤対馬(さとうつしま)が現在の場所に移し、「宝光寺」として開基したと伝えられています。 相模原市 相模原市教育委員会」
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相模原市の旅行記 宝光寺石門
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相模原市の旅行記 本堂扁額 「寶光禅寺」の文字が見えます。
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相模原市の旅行記 境内風景 主たる樹木はきれいに保存管理されてい...
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相模原市の旅行記 境内風景
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相模原市の旅行記 境内風景 聖徳太子石碑が配されています。
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相模原市の旅行記 境内風景
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相模原市の旅行記 墓地風景
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相模原市の旅行記 JR相模線上溝駅 東海道線茅ヶ崎駅と横浜線橋本...
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相模原 ,横浜線歴史的痕跡探訪記 ?東神奈川-八王子間編 明治頌歌【建造中】?
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横浜臨海公園
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2009/08/05~" . 2009/09/20
旅行テーマ 【歴史・文化・芸術】

横浜線歴史的痕跡探訪記 ?東神奈川-八王子間編 明治頌歌【建造中】?

横浜線は一昨年開業100周年を迎えた。 明治期から昭和前半まで我が国最大の輸出品と言えば生糸だった。 此の当時、生糸は東北北海道沖縄方面を除き日本本土各地で生産されていたが、国内外でも高評価で1級品認定されていたのは長野県産品、及び、群馬県産品だった。 件の物は製品化された上で外貨獲得の重要物資として横浜港から主に北米へと輸出された。 群馬県産品は群馬から横浜までの輸送経路が、日本鐵道(高崎→品川間)・逓信省鐵道作業局(品川→横濱間)と単純で運賃も廉価で済んだのに対し、長野県産品は、逓信省鐵道作業局(長野県内各駅→八王子間)・甲武鐡道(八王子→新宿間)・日本鐡道(新宿→品川間)・逓信省鐵道作業局(品川→横濱間)と数社を経由する事から運賃が嵩み群馬県産品との競走上、不利にならざるを得ず、明治30年代後半ともなると販路の関係上、その差が歴然として深刻な状況が招来した。 此の為に八王子から横濱に向け鉄道建設を願う声は日に日に高まったもが、明治政府は横濱線が政府主要建設予定路線だったにも拘らず、日露戦争の結果、戦費収納を優先とした為に財政的余裕が無く、故に、沿線民間出資に拠り横浜-八王子間の鉄道会社を設立する方向に固り、紆余曲折の後、明治35年(1902年)8月23日に茲に正式に横濱鐵道會社が設立され本社は横濱市青木橋に設置し、直ちに鉄道運営に必要な機関車、軌条、機材類を米フレザー商会横浜支店を仲介して発注された。 当時は現在の如く簡単に入手すべき可能な時代などでは無く、船便での発注手配であり、軌条に至っては、明治39年(1906年)製造になる。 明治41年(1908年)9月23日に東神奈川-八王子駅間全線開通した。 然し、横濱鐵道は開業の時点で企業設立時の目論見とは大きく異なる事態が発生していた。 即ち、中央線沿線発横浜着の貨物激増に拠り、明治38年(1905年)2月15日から、甲府-横浜間に、甲武鐵道、日本鐵道を経由した直通貨物列車を運行開始した。 更に、政府は日露戦争後に於ける全国に存在する私鉄の国有化を目差し、明治39年(1906年)3月31日に『鐵道国有法』(法律第17号號)を制定し該法律に基づき、甲武鐵道が同年10月1日、日本鐵道が同年11月1日に政府に拠り買収された為に、バラバラだった運賃計算が一貫通し計算が可能となり利用者からは歓迎を受けたが、反面、横濱港への短路とは言え高額な加算運賃を支払う私鉄経由たる横濱鐵道利用のメリットが無くなった事で当初の目論んだ数値より遙かに低い輸送量しか得られなかったからである。 当時は横濱鐵道が将来の政府建設予定線である事を理由に早くも明治43年(1910年)4月には政府が借上げて運営される事となり運賃が鐵道院路線と同額となり通し計算が可能になった事から利用者にとってメリットは大きいものだったと推定される。 横濱鐵道開業の頃より国内知識層間に軌間拡大論が展開される。 即ち、明治政府は鉄道建設開始にあたり英国人設計担当者より日本人担当者に対し軌間採用設定に就いて質問した処、件の日本人担当者は業務知識絶無な上に内容に就いて理解も吟味をもし得ず単純に狭軌を採用する旨、回答した為に、爾来、我が国で軌間と言えば狭軌を採用した事で此れが今日でも主流となる。 然るに、輸送上に関し狭軌(1067?) 対 標準軌(1435?)はワイドな標準軌採用の方が何かと有利たる事は自明の理であり、明治期後期ともなると国力に余裕が生じると輸送量不足と拡大化とを求める声が国内の特に軍部を中心に台頭する。 政府としても広軌化論を無視放置する訳にもならず、取り敢えず借上げ運営中の横濱鐵道原町田(現 町田)-橋本駅間施設を改築して走行試験を試行する事となり、大正6年(1917年)5月23日に件の区間を3線化、若しくは、4線化工事完了を以って実験を開始する。 広軌化改造工事に拠る結果は、蒸気機関車の広火室化の容易、燃費向上、速度抵抗軽減等々、狭軌より標準軌の方が約32パーセント増の効果が確認され、広軌化に拠る経済効果は大なりと判定されたにも拘らず、政変の為に西園寺内閣は総辞職を余儀なくされ改軌案賛成の民政党から対立する政友会が政権を獲得した為に大蔵省に依る予算計上まで完了していたにも拘らず広軌化計画は頓挫する。 政友会の主張は「広軌化改造に要する諸費用を以って地方諸路線新設を優先すべし、云々」との意見を開陳し反対したが、即ち、政友会の主張に沿って建設された地方路線は此の時期から昭和初期にかけて全国に及び、件の路線の殆どが当初から人口希薄地域を通す赤字路線であり、戦後、此れら路線を継承した日本国有鉄道の財政を逼迫させ破綻させた大赤字の萌芽たる地方赤字ローカル線問題は此れら路線建設の結果を招来させた。 即ち、政友会の主張と裏腹に実際には国益の為の路線建設などでは無く、現実は政友会代議士の露骨な利権追求の為の票田建設と言ふ方が正しく、昭和初期に政友会大物衆議院議員で長野県選出の小川平吉(おがわ へいきち)(明治3年(1870年)1月2日?昭和17年(1942年)2月5日)は第26代内閣総理大臣 田中義一(たなか ぎいち)(元治元年(1864年)7月25日?昭和4年(1929年)9月29日)(昭和2年(1927年)4月20日?昭和4年(1929年)7月12日在任)の鐵道大臣在任中、私鉄路線建設申請に関する免許状乱発交付で露骨な贈賄行為を反復させた事で世に言ふ私鉄疑獄事件を起し、小川は鐵道大臣経験者と言ふ親補職元親任官にも拘らず司法検察当局に逮捕拘留され、起訴された為に裁判に付され大審院(現在の最高裁判所)で有罪が確定し実刑に処さ、位階剥奪されるが如く、此の手の政友会代議士は国益より自己利権に走狗する行為が露骨で我田引鉄を得意とした。 政友会の後塵直系組織たる現在野党に大転落した○○党が、度々の利権報道と司直強制捜査で先般も贈賄容疑で元公設秘書が逮捕拘留されるが如きは、此の悪しき伝統が根をおろしているものと考えるを得ず、大所高所から国民の目線をして誠に遺憾な行為といわざるを得ない。 結局、標準軌採用は見送られ、本格的採用は昭和39年(1964年)10月1日に東海道新幹線東京-新大阪間開業まで留保される。 標準軌改築工事が実施された同年10月に政府は横濱鐡道全線を正式に買収させ政府資産とする事に決定し、茲に横濱鐡道は正式解散し、官有たる鐵道院八濱線として新たなる出発をする。 然し、国立公文書館に保存されている当時の公文書本文を精査すると政府の本心が垣間見て取れる。 因みに本文中の新宿線とは現在の山手線である。 横濱鐵道借受ノ件 別紙内閣総理大事請議横濱鐵道借受ノ件ヲ審査スルニ右ノ相当ノ儀ト思考ス依テ請議ノ通閣議決セラレ可然ト認ム 指令書 横濱鐵道借受ノ件請議ノ通   明治四十三年二月三日(印) 運第壱百弐拾壱号 横濱鐵道借受ノ件 横濱鐵道ハ官設鐵道東海道線ト中央東線トノ間ニ位シ新宿経由ノ官設線路ニ対シテハ競争ノ捷路タルヲ以テ之ヲ政府ニ借受ケ東海道ト中央東線トノ連鎖トシテ管理スルコトハ独リ新宿線ノ輸送上ニ於ケル負担ヲ軽減スルノミナラス東海中央ニ線ノ運輸ヲ圓満ナラシムルモノニシテ頗ル得策ナリト認ム且同會社カ既ニ許可ヲ得タル横濱港内ノ延長線及出願中ノ海面埋立ト本院ノ計画ニ係ル横濱港ノ海運連絡ト相待テ其ノ効用ヲ完フスヘキモノナルニ依リ 其等ノ権利ヲ継承シテ工事ヲ遂行スルノ必要アリト信テ大略左ノ条條件ヲ以テ横濱鐵道會社ト契約ヲ締結セントス 一)該鐵道ノ運輸営業ニ要スル各種建造物車輛及附属品ヲ伴セテ借受クルコト 二)天災事変ニ起因シ損害ヲ来シタル場合ノ各種建造物及車輛等ノ修理保存ハ一切政府ノ負担トスルコト 三)借用料ハ該鐵道ノ営業成績ト該鐵道ヲ政府ニテ管理スル為メ官設鐵道ノ受クヘキ利益トヲ参酌シ其金額ヲ定ムルコト 四)該鐵道ノ借受期限ハ壱ケ年トシ政府ノ都合ニ依リ同一ノ條件ヲ以テ通計弐拾箇年ニ達スル迄壱ケ年毎ニ契約ヲ更新スルヲ得ルコト 但シ借用料ハ契約更新ノ都度之ヲ協定スルコト 五)臨港延長線及横濱港北防波堤ニ沿ヒ港内ニ面スル埋立工事ハ政府ノ費用ヲ以テ施行スルコト 六)前號ニ依テ政府ノ投シタル費用ハ鐵道返還ノ場合ニ於テ現実ニ存スル増加価格ヲ會社ハ政府ニ弁償スルコト但シ海面埋立ハ返還セサルコト 右閣議ヲ請フ 明治四十三年一月十八日 内閣総理大臣 侯爵 桂 太 郎 横濱鐵道株式會社社長 朝田又七殿 内閣総理大臣 侯爵 桂 太 郎 殿 当時の山手線は現在の如く複々線で客貨分離がさ成されておらず、複線で電車を頻発運転させながら貨物列車を割込運転させる等、綱渡り的運転を強いられ、既に運転上で列車遅延は常態化し飽和状態だった。 また、政府としても横浜北港埋立構築は日露戦争後に於ける対外国策上必要不可欠要件であり、横濱鐵道借受は政府にとって正に一石二鳥効果を得る事が可能だった。 即ち、借与中に於ける民間所有物たる動産不動産諸施設に対する改造変更は、現財物に対する変更行為と言ふ、法的矛盾を生じせしめ、当時の内閣法制局の指摘を根拠に買収を決定させた。 後年、昭和初期に鐵道省東京-大阪間3等運賃と富士身延鐵道富士-甲府間3等運賃がほぼ同額とされ、富士身延鐵道を政府於いて筆頭高額運賃軽減をはかる目的で借上運営中の諸設備向上を理由に鐵道省が改良工事に着手せんとして、前述の指摘を受け工事中止をせざるを得ない状況が現出し、此れ以降、政府や鐵道省は民間鉄道会社を民設公営の厄介で中途半端な借上経営を止め買収実行の形態へと変化する。 例外的に借上げ形態を採用したのは京成電気鐵道上野公園(現 京成上野)-日暮里間で、大東亜戦争中に運輸通信省本省の地下疎開基地先として選定され、強制借上げ後は特殊標準機を狭軌に改軌し、運用中止になり休車中の1、2等寝台車や1等展望車を搬入し防空壕代りに使用された。 殊に、日華事変(にっかじへん)(昭和12年(1937年)7月7日?昭和16年(1941年)12月8日)勃発以降は、戦時軍事輸送体系円滑化の強化を目的として戦時買収が活発化する。 或る日、政府から会社に突然、代表者を鐵道省本省に招致出頭せしめる電報が送達され、本省に出頭した担当者は否応無く買収を受諾させられる事態が常態化する。 買収条件は一定期間売却禁止の戦時国債交付と被買収企業の解散禁止だったが、然も、戦後になり我が国を見舞った超インフレ経済に依り売却期限が到来した戦時国債の証券価値は紙屑同然になり、故に、各方面から買収資産価値変換と無償払下運動が勃興するが、大蔵省は解決済との頑な態度に終始し、被企業側は政府や鐵道省、運輸通信省の言いなりになり組織をタダ取りされたと言ふ怨恨を残した。 東神奈川駅は鐵道院東海道本線と横濱鐵道乗換駅として鶴見-神奈川駅間に横濱鐵道が建設し完成と同時に鐵道院に無償貸与された。 横浜市民ですら東神奈川駅が存在するのに何故、(本)神奈川駅が存在せぬのかとの疑問を抱く様ですが、本来、神奈川駅は明治5年(1872年)7月10日に開業していた為に、「神奈川駅に対する東に所在の駅」という意味合いで東神奈川駅と命名された。 然し、昭和3年(1928年)10月15日に横浜駅が現在地に移転し、神奈川-横濱駅間が180メートル弱しか離れていない為に、前日の10月14日限りで開業以来56年間の歴史に幕を閉じた為に東神奈川駅だけが残ると言う変則的事態になった。 鐵道省は東海道本線横濱-國府津駅間、横須賀線大船-横須賀駅間、及び、熱海線國府津-小田原駅間を1500ボルト直流電化する事に決定し、大正11年(1922年)に工事着手する。 然し、工事途中にして関東大震災に遭遇し電化工事は一時頓挫する事になったが、電化に関する要員教育研修を兼ね、当時の横濱線に再び実験線としての栄誉を賜り、東神奈川-原町田駅間の電化工事を大正13年(1924年)6月15日に着手し同月26日に完成させると言ふ記録的突貫工事で完成させ直ちに試験運転を開始させた。 大正12年(1923年)9月1日11時57分頃 関東大震災(かんとうだいしんさい)が発生した。 該地震で横濱線内に於ける被害では東海道線乗越橋破壊、相原隧道切通法面崩壊、及び、長津田-原町田間高ケ坂築堤破壊等々が発生し、特に、東海道本線上に2連架橋の乗越橋は、八王子方橋桁1連が東海道線上に落橋した。 駅舎関係では、小机駅、及び、原町田駅本屋が大破し、特に、原町田駅は大部分が湿地帯に停車場が設置された為に、駅構内施設が全滅被害が生じた。 復旧工事は原町田-橋本間の如く震災当日に着手した所も存在したが、概して東海道本線開通が最優先された関係で完成は他線区に比較して遅さが目立つ。 東神奈川-小机間 9月11日着手 9月28日完工 小机-原町田間 9月11日着工 9月22日完工 原町田-橋本間 9月1日着工 9月20日完工 橋本-八王子間 9月5日着工 9月20日完工 該地震で被災した列車は、地震発生時に東神奈川-八王子間運転中の列車は、意外な事に、貨物列車1本だけだった。 即ち、上り貨物第852列車は長津田-中山間走行中に該地震に遭遇し、該列車貨車6両が脱線被害が発生した。 旅客列車は、東神奈川駅12時00分発八王子行客貨混合第907列車が始発駅発車直前だったが、若し、該混合列車が11時55分発だったら、震災発生時に東海道線乗越橋付近を走行して筈で、該橋梁が東海道本線上に落下被害が発生していた事から、該列車にも被害が及び、旅客に死傷者が発生していた可能性が高かったものと推定される。 然るに、当時は横浜線支線だった海神奈川駅では、下り貨物第411列車が通過中に該地震に遭遇した。 59627号機に牽引された貨車44両中、数両が脱線転覆した。 然も、折しも、脱線転覆した貨車搭載物は火薬だった。 該地震発生と同時に、現在の横浜駅西口付近に所在した、米スタンダード石油、及び、米ライシングサン石油の油槽タンクが破損し、油槽タンク内の石油が流出し、帷子川(かたびらがわ)に流れ出た石油に付近工場から出火した火が着火炎上し、帷子川両岸建造物を焼失させ流域を火の海にした。 業火は横浜港に流れ込み、海神奈川駅方面に向かって来た事から、搭載貨物たる火薬取扱が急務となった。 大正7年(1918年)7月26日夜半に発生した、下関駅構内関釜連絡船火薬大爆発事故に鑑み、鐵道省は陸海軍省、内務省とも協議の上、火薬取扱規則を制定し、火薬取扱は、駅長、若しくは、指定貨物掛立会に拠り、取扱時間も日の出から日没に限定された厳格な規則下で施行されていた。 然し、該火薬誘爆の危機が迫って来た事から、該駅職員が規定外行動だったが、該搭載火薬を被災貨車から取出し、海中に投棄するの行動に出た。 一連の爆発を回避させた行動は危機管理の観点から見ても妥当正当だった。 貨車搭載火薬爆発未遂処理では、昭和20年(1945年)8月1日未明に東京都八王子市に対し、米空軍は全国最大規模の空襲を実行したが、該空襲開始直前に八王子駅構内に本土決戦用陸軍高性能火薬が貨車3両が留置されている事を知った当時の八王子停車場憲兵隊憲兵3名は、駅職員が深夜たる該時間帯を該規定をタテに他への移動を拒否したのに対し、憲兵3名が空襲で該火薬に誘爆すれば危険と判断し、上官の命令も待たず強権を以って構内に停車中の電車に連結させ隣駅豊田駅に退避を命令し、豊田駅到着直後に空襲が開始され、該憲兵3名は旅客職員を避難誘導したの後、3名共職場に踏み止まり殉職した一件があり、該駅構内に残置を継続していれば確実に焼夷弾が命中して誘爆が避けられず、八王子大空襲に於ける死者数が、陸軍憲兵や警察が住民達を的確に退避させた関係で少数だったが、若し、該火薬が爆発していれば、数千人規模の死者が発生してたものと思われ、該一件は八王子市史にすら記述が無いが、現在でも忘れてはならぬ史実である事を銘記すべきである。 東海道本線電化工事が完了し東京-小田原駅間等で試運転が本格的開始の前に横濱線電化諸施設は本来の用途目的を達成させた事から遊休化したが、横濱線沿線で地元有力者が此れら設備を見逃す筈も無く、再三にわたり鐵道省に対し件の区間の電化諸施設の活用策として横濱線列車を蒸気機関車から電気機関車牽引に変更要求が提議される。 然し、昭和初期に鐵道省は電気機関車国産化が成功したが、当時の電気機関車1輌に於ける製造価格は大型蒸気機関車1輌と比較しても際立って高価な存在であり、概ね、EF52型電気機関車1輌の製造諸経費はC51型大型旅客用蒸気機関車2輌分に相当し、当時の震災復興中の鐵道省予算内に於ける車輌新造は困難な状態であり、且つ、当時の電気機関車保有数に余裕も無い事から鐵道省が横濱線に電気機関車を導入し電気運転するなど論外的見解と言ふべきであり、現実にはに不可能だったに相違無い。 然るに、大正末期頃から東京圏内に於いて1500ボルトに拠る電車運転が成功裡を修めると横濱線も電車運転の気運が盛上り、昭和7年(1932年)11月23日より該電化区間に於いて電車運転が開始されたが、此れは横須賀線にモハ32型等々の専用車輌導入が一段落し、余剰車を転用の為に可能となった。 此の時に横濱線用として田町電車区より横須賀線を代表する半鋼製電動車モハ32型と池袋電車区より木造制御車クハ17型が東神奈川電車区に配転され2輌編成で運転される。 モハ32型には貫通幌が設置されていたのに対しクハ17型には幌が無装着の為に、モハ32型の相手無き幌がフワフワと浮き上がりながら運転された。 またクハ17型は老朽木造車故に走行中は車体がギシギシと唸り菱形に変形しながら走るものの、電化後の毎時1本の運転形態は変化なく継続する。 残りの非電化区間たる原町田-八王子駅間は昭和8年(1933年)10月1日からガソリン動車キハ41000型が導入され運用を開始される。 昭和12年(1937年)7月7日に勃発した日華事変の頃より横濱線を取巻く環境は隣接地域の小田原急行鐵道(現小田急電鉄)、相模鐵道と共に戦時体制に組込れる。 即ち、当時の社会情勢は帝國陸軍に拠る施設拡充を行使したくとも人口密集地たる東京府内に於いて最早困難性を極める事態を招来し府内に存在する諸施設を東京近郊に移転させる必要性が生じ、殊に、陸軍士官学校が東京市谷台より相模原に移転した事も手伝い急に此の地に軍事施設が盛況を極める。 特に、陸軍士官学校卒業式に臨席あらせられる昭和天皇御乗の御料車を含む6輌編成の御召列車が八王子経由で原宿-原町田駅間、若しくは、原宿-相模鐵道本線相武台下駅間に運転され、原町田、相武台下双方の駅に簡易ながら御召列車専用ホームと関係諸施設が構築された。 他方、横濱線沿線に軍事施設、軍需工場の進出に拠り旅行数が鰻登り的激増を見せ、東神奈川-原町田駅間では、従来の2輌編成の電車が毎時1本の牧歌的運転で事足りていたものが、朝夕は4輌編成15分間隔となり急に慌しくなった。 原町田-八王子駅間のガソリン動車の運転では各車輌に運転士を乗務させ先頭車運転士のブザー合図に拠り各車での単独運転させる為に最大3輌迄の編成しか組成出来ず、又、昭和15年(1940年)1月29日に大阪西成線安治川口駅ガソリンカー脱線転覆火災事故で死者189名負傷者69名を出す大惨事が教訓となり、横濱線全線が単線である事も輸送上の障害を来たしていた為に、昭和16年(1941年)4月5日に残り原町田-八王子駅間も電化され横濱線全線で電車運転される。 また同日に陸軍省の要請に拠り駅間が長かった淵野辺-橋本駅間に相模原駅が開設される。 相模原駅開業に因み、同名駅が存在した小田原急行鐵道所属駅相模原駅は、鐵道省から開業を直前に駅名重複を避ける為に小田急相模原駅に改称を命令される。 大東亜戦争中に於ける横濱線沿線最大の被害は、昭和20年(1945年)5月29日白昼堂々と実行された横浜大空襲に依るもので、横浜市内では東急電鉄湘南線黄金町駅、及び、神奈川区反町付近から東神奈川駅付近に至る地域の被害が他地域を圧倒し、東神奈川駅、及び、隣接する東神奈川電車区は米空軍B29重爆撃機から投下された1トン爆弾2発、及び、焼夷弾数十発が命中した為に、電車区では留置中の電車14輌全車と全施設が全焼全滅し、東神奈川駅では東急電鉄京濱線仲木戸駅付近で焼夷弾命中発火に拠り発生した火砕流が東神奈川駅構内に流れ込み、退避中の駅長以下駅員数名が此の火砕流に巻き込まれ、重軽傷者24名以外の7名は全員行方不明で遺体の一部すら発見されなかった事から此れら被災職員に対し戦時失踪者扱が認定され全員殉職扱いされる。 東神奈川駅は西口跨線橋、東部信号所、及び、ホーム擁壁部を除き此れ以外の全施設設備が被災全滅し、復旧に相当期日が見込まる事から、京濱線電車は駅復旧まで営業扱を中止され全列車が東神奈川駅を通過し運転される。 同年6月3日附を以って桜木町駅長飯田泰次郎氏が東神奈川駅長に赴任し混乱収拾をはかる。 横濱線は東神奈川駅構内が徹底的に破壊され電車発着が不可能となった事から現在の大口駅南側に相当する地点に古枕木を積重ねた臨時乗降場を設置し、横濱線電車は此処で八王子方面に折返し、利用客は新子安駅まで徒歩連絡で当座を凌ぐ。 横浜大空襲で当時大口に存在した日本大学専門部横浜校舎は全焼し、終戦直後に日吉と三島に移転転出した跡地を日本大学から無償提供を受け、此れを活用して昭和22年(1947年)12月20日に大口駅が開設される。 大口駅が戦争の申し子的感が無きにしも非ぬ存在だったにも拘らず、此れ以降、戦後の横浜線は既設駅間に雨後の筍の如く新規駅建設に明け暮れた感が強い。 横浜線は他線区に比較して複線化完成まで極めて遅動だった。 特に、小机以遠の工事が10年以上経過後の昭和50年代に再開したが、此れは複線化工事中当時に於ける日本国有鉄道の財政悪化が主原因である。 全線完成に至っては民営化後にずれ込む。 菊名-新横浜間 昭和42年(1967年)10月22日 新横浜-小机間 昭和43年(1968年)2月4日 大口-菊名間 3月12日 東神奈川-大口間 3月19日 小机-中山間 昭和53年(1978年)10月2日 中山-長津田間 昭和54年(1979年)4月1日 長津田-原町田(現 町田)間 7月15日 淵野辺-相原間 9月14日 町田-淵野辺間 昭和55年(1980年)9月27日 相原-八王子間 昭和63年(1988年)3月6日 現在の横浜線は純然たる通勤通学路線である。 然し、驚く勿れ、探せば歴史的遺産はアチラこちらに残存する。 現在、起点の東神奈川駅第2番ホームには横濱鐵道開業当時の側壁の関東煉瓦八王子工場製煉瓦積や上屋支柱に使用されている古軌条は横濱鐵道開業当時の発注品の成れの果てである。 表紙の写真は東神奈川駅第2ホーム上屋支柱に残る横濱鐵道創業時に米国カーネギー社から輸入使用された古軌条群と横浜線用205系電車。
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相模原市の旅行記 町田駅 旧 原町田駅構内
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相模原 ,相模淵野辺 小田原北条氏外交僧師板部岡江雪斎を祖とする岡野氏庶流一族菩提寺 龍像寺散歩
相模原市の地域
相模原
相模原市への旅行者
滝山氏照
相模原市の旅行時期
2014/05/19~" . 2014/05/19
旅行テーマ 【歴史・文化・芸術】

相模淵野辺 小田原北条氏外交僧師板部岡江雪斎を祖とする岡野氏庶流一族菩提寺 龍像寺散歩

龍像寺(りゅうぞうじ)の創建については縁起では暦応年間(1338~1341)境川近くの池に棲んで地元住民に危害を加えていた大蛇を、当地域地頭であった渕辺義博(ふちべ・よしひろ、生誕不詳~1335)が弓矢で退治し三体に分散した蛇体を3ヶ所の寺院に葬り、それぞれを龍頭寺・龍像寺・龍尾寺としたと伝えられています。 その後上記三寺は荒廃してしまいましたが、この龍像寺については弘治2年(1556)巨海(こかい)和尚によって再興され今日に至っています。尚寺宝として龍骨の一部と渕辺義博が退治した際の矢尻と板碑が所蔵されています。 更には本堂に向かって左手に連なる墓地中腹に至る手前には江戸時代当地を治めていた旗本岡野氏一族の墓地があります。 岡野氏の遠祖は伊豆名族出身の田中氏と言われ3代当主小田原北条氏康に仕え、途中で北条氏家臣の名跡を継いだ板部岡融成(いたべおか・とおなり、入道名:江雪斎1537~1609)で彼はその後4代当主氏政の側近となって評定衆筆頭に昇格、彼の署名による文書が数多く発給されています。 特筆すべきは江雪の持ち前の理路整然とした思考と優秀な弁舌が当主に高く評価され、小田原北条氏の将来を決する程の重要な時期に外交使節として登場します。 一例としては天正10年(1582)織田信長が本能寺で横死後の甲斐・信濃領有を巡る交渉で、有利な展開を背景に高姿勢で臨んだ徳川家康に対し家康が甲斐・信濃の支配を認める代わりに小田原北条氏が旧武田領であった上野国(群馬県)の支配を家康に認めさせ、併せて畿内で勢力伸長大の豊臣秀吉に対し同盟して対抗姿勢を示すべく家康の娘を氏直の正室に迎えるということで決着をします。 天正18年(1590)小田原城開城後、氏政・氏照兄弟切腹、5代当主氏直(うじなお、1562~1591)高野山追放となりますが江雪斎は氏直名代として秀吉と面談して江雪斎の人柄が評されて助命、以降敵方であった秀吉の家臣となって京都伏見に居を移し、秀吉命により岡野に改姓したうえで秀吉のお伽衆として対応することになります。 秀吉没後は家康と石田三成(いしだ・みつなり、1560~1600)が互いに反目、江雪斎は家康が旧主氏直助命に並々ならぬ動きをした恩義を忘れておらず家康方に属することになります。 徳川家康方についた江雪斎は生来より身に付けた交渉力を以て、家康の密命により小早川秀秋(こばやかわ・ひであき、1582~1602)に接し家康に味方をするよう交渉を進めます。 秀秋との密約により徳川方に通じる事となり、結果は既にご承知の通り慶長5年(1600)関ヶ原合戦では当初は西軍の優勢で推移したものの後半では秀秋の寝返りにより西軍総崩れついに敗退となります。 慶長14年(1609)江雪斎は伏見の屋敷で74歳の生涯を終えますが、その息子(房恒・房次)たちは既に家康の取り計いで徳川家の旗本として名を連ねています。 寛永3年(1626)に江雪斎の二男である房次(ふさつぐ、生誕不詳~1611)の子英明(ひであきら、生誕不詳~1663)が500石の所領を以て当地を治めることになり江雪斎の貢献を考慮してか知行替えはなく末代まで続きます。尚江雪斎嫡男・房恒の子孫は武蔵国都築郡長津田村(現横浜市都筑区長津田)を代々治め歴代の墓は長津田駅南口の大林寺にあります。
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相模原市の旅行記 龍像寺山門 小振りながら均整の取れた山門に好感が持...
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相模原市の旅行記 寺号石標 山門左側には「渕源山龍像禅寺」と刻された...
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相模原市の旅行記 扁額 山門上部に掲載の扁額は「渕源山」とあります。
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相模原市の旅行記 龍像寺本堂 正式には淵源山(えんげんざん)龍像寺と...
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相模原市の旅行記 鐘楼堂
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相模原市の旅行記 手水舎 粗石がくり貫かれた素朴な形状が特徴です。
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相模原市の旅行記 石燈籠 粗削りな燈籠に思わず目が移ります。
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相模原市の旅行記 石燈籠(左側)
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相模原市の旅行記 本堂扁額
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相模原市の旅行記 本堂内部
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相模原市の旅行記 龍像寺境内風景
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相模原市の旅行記 客殿玄関
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相模原市の旅行記 観音堂 本堂の左側の小高い敷地には観音堂が控えてい...
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相模原市の旅行記 龍像寺石碑
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相模原市の旅行記 龍像寺説明
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相模原市の旅行記 徳本念仏供養塔
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相模原市の旅行記 徳本念仏供養塔説明
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相模原市の旅行記 六地蔵
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相模原市の旅行記 渕辺義博の伝承 駐車場一部に掲示されている渕辺義博...
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相模原市の旅行記 旗本岡野氏累代墓地
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相模原市の旅行記 岡野氏累代墓誌
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相模原市の旅行記 岡野家塁代墓誌(裏側) 先の江雪斎の功績を称え幕府...
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相模原市の旅行記 岡野氏歴代墓
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相模原市の旅行記 岡野氏歴代墓
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相模原市の旅行記 岡野氏歴代墓
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相模原市の旅行記 岡野氏歴代墓
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相模原市の旅行記 岡野氏歴代墓 家紋と思われる印が墓石に刻されていま...
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相模原市の旅行記 岡野氏説明
相模原市の旅行記
相模原 ,相模淵野辺 小田原北条氏康関東平定祈願所 日枝神社散歩
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相模原
相模原市への旅行者
滝山氏照
相模原市の旅行時期
2014/05/18~" . 2014/05/18
旅行テーマ 【歴史・文化・芸術】

相模淵野辺 小田原北条氏康関東平定祈願所 日枝神社散歩

説明板によれば日枝神社の創設は鎌倉時代後期執権北条貞時(ほうじょう・さだとき、1272~1311)の頃の徳治2年(1307)です。 貞時は祖父の時頼(ときより、1227~1263)と同様に僧となって各地を遊歴するなか、当地に来て現地官吏の善悪賞罰を正します。その折境川の瀧池に棲んで人を襲っていた大蛇を退治する際山王大権現を祀り、地頭の淵野辺義博(ふちのべ・よしひろ、生誕不詳~1335)に命じて大蛇を殺させます。 また後年、天文11年(1542)には小田原北条の3代氏康(うじやす、1515~1571)が武蔵国各戦地に赴く際戦勝を祈願する神社としていました。 以降日枝神社は度々修復されており、現在の社殿は昭和42年(1967)に再建されています。
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相模原市の旅行記 日枝神社 JR淵野辺駅から北進約15分、左手に住宅...
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相模原市の旅行記 天野兼三郎功頌徳碑 明治初期において郷土発展に尽く...
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相模原市の旅行記 神社境内風景 広々とした境内の中央部は拝殿に向かう...
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相模原市の旅行記 神社境内風景 境内右側には神楽殿と思われる建物が見...
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相模原市の旅行記 神社境内風景
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相模原市の旅行記 日枝神社説明
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相模原市の旅行記 日枝神社拝殿 御祭神は大山咋神(おおやまくいのかみ...
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相模原市の旅行記 神社社号額 「日枝神社」の社号額が設置されています...
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相模原市の旅行記 境内風景 拝殿から登ってきた参道を見渡します。
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相模原市の旅行記 神社境内風景
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相模原市の旅行記 神社境内風景
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相模原市の旅行記 神社本殿 本殿は拝殿と共に改修されたようで真新しい...
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相模原市の旅行記 社殿改修浄財奉納者一覧
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相模原市の旅行記 境内風景 狛犬・石燈籠も改修されたようです。
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相模原市の旅行記 吉祥國霊神
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相模原市の旅行記 境内展望 高台にある拝殿から境川方向を一望します。
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相模原市の旅行記 境内展望 境内石段から広場方向を見下ろします。
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相模原 ,相模淵野辺 尊氏の幕府創設を支えた実弟足利直義直臣 渕辺義博居館跡訪問
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相模原
相模原市への旅行者
滝山氏照
相模原市の旅行時期
2014/05/19~" . 2014/05/19
旅行テーマ 【歴史・文化・芸術】

相模淵野辺 尊氏の幕府創設を支えた実弟足利直義直臣 渕辺義博居館跡訪問

渕辺義博(ふちのべ・よしひろ、生誕不詳~1335)は鎌倉時代末期から南北朝時代に当地を治める武将で、足利尊氏(あしかが・たかうじ、1305~1358)の実弟である直義(ただよし、1306~1352)に仕えています。 元弘3年(1333)鎌倉幕府の滅亡後、後醍醐天皇による公武一統の建武政権が発足、戦功を挙げた尊氏は武蔵国国司・守護兼帯、上総守護に補任されますが中央政府では功労の第一人者にふさわしい待遇はなく鎮守府将軍という閑職に置かれ、この機会を機に尊氏はもっぱら鎌倉を中心に関東に勢力を築くことに傾注します。 同年12月政府の方針に沿って関東の押さえとして鎌倉幕府のミニチュア版のように、相模守に任命された尊氏実弟の直義が鎌倉に下向し「鎌倉将軍府」なるものを組織します。 ところが改元されて建武2年(1335)7月に信濃に蜂起した北条高時の遺児である時行(ときゆき、生誕不詳~1353)が諏訪氏らの軍勢を動員して鎌倉に向けて進撃、直義は時行軍を武蔵府中にて迎撃しますが敗れ、鎌倉を離れ三河国矢作(やはぎ)に退却し兄尊氏の援軍を待ちます。(中先代の乱) 鎌倉府の防衛ができず鎌倉を退去する際、直義は以前から東光寺に幽閉されていた後醍醐天皇の第三皇子護良親王(もりよししんのう、1308~1335)を自らの判断で殺害します。その殺害の命を受けたのが渕辺義博です。 護良親王が鎌倉にて幽閉されるに至る経緯は次の通りと言われています。即ち、親王は生来武勇誉れ高く過激な性格でこの人格を背景に元弘の乱では果敢に戦い鎌倉幕府討滅の功労者として征夷大将軍に就任します。親王は足利尊氏は武家政権の復興を目論む危険人物であると決めつけ事あるごとに尊氏とは激しく対立、ついに尊氏暗殺を企てますが未然に発覚、後醍醐天皇もこれをかばいきれず護良親王は捕えられ鎌倉に配流されていたところです。 上記経緯の中で直義が護良親王を殺害する理由としては、北条時行が鎌倉に侵攻の際に護良親王が時行の手に落ちた場合、反足利勢力のシンボルとして利用される事に懸念があったためと思われます。 殺害に際して次のような場面が語られています。護良親王は義博の太刀を噛み折り、死んでもなおその太刀を離さなかったことから、怖れを抱いた義博は親王の首を捨てて逃げ去ったと言われます。そして捨てられた親王の首級を葬ったのが理智光寺の住僧であったといわれています。 その後直義と共に鎌倉を離れた渕辺義博は京都から出陣した尊氏軍と共に北条時行軍を破り鎌倉を奪還、後醍醐天皇の帰還命令にも拘わらず尊氏はそのまま鎌倉に居座って建武政権から離脱することになります。 後醍醐天皇より尊氏追討令を受けた新田義貞軍に対し尊氏は弟直義を大将とする軍を派遣させますが戦況芳しくなく撤退の後、駿河国手越河原(てごしがわら)にて新田軍に追いつめられここで渕辺義博は直義退却のため身代わりとなって討死します。
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相模原市の旅行記 淵辺義博居館跡案内 境川根岸橋に向かう途中に案内板...
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相模原市の旅行記 淵辺伊賀守碑入口 周辺の住宅街から更に細い道に入り...
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相模原市の旅行記 渕辺伊賀守義博居館跡全景 アパ-ト・民家に囲まれた...
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相模原市の旅行記 渕辺伊賀守義博居館跡石碑
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相模原市の旅行記 渕辺義博顕彰碑
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相模原市の旅行記 居館跡風景 顕彰碑右側には特定されない墓石が在りま...
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相模原市の旅行記 第六天神社全景 鎌倉時代後期から南北朝時代に当地を...
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相模原市の旅行記 第六天神社 中央部右側に「第六天祀」石碑が建立され...
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相模原市の旅行記 第六天神社説明
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相模原市の旅行記 第六天祀石碑
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相模原市の旅行記 稲荷大明神石碑 極めて窮屈な第六天神社の左側に石碑...
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相模原市の旅行記 第六天坂石標 当然ながら第六天神社の傍らに坂が在っ...
相模原市の旅行記
相模原 ,相模相原 武蔵七党横山党庶流粟飯原氏ゆかりの相原八幡宮散歩
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相模原
相模原市への旅行者
滝山氏照
相模原市の旅行時期
2014/05/11~" . 2014/05/11
旅行テーマ 【歴史・文化・芸術】

相模相原 武蔵七党横山党庶流粟飯原氏ゆかりの相原八幡宮散歩

JR 横浜線相原駅から相模・武蔵を分ける境川に沿った町田街道を西進、二国橋を渡ると相原(あいはら)八幡宮があります。 境内の由緒によれば当八幡宮の創建時代は不詳ですが、平安時代末期に現在の八王子横山庄に拠点を置く武蔵七党の横山氏の宗家横山時重(よこやま・ときしげ、生誕不詳~1213)が当地(高座郡粟飯原郷)に進出し、粟飯原(あいはら)氏と称して当地を支配することになりますが、その後に創建されたのではないかと推測します。 建暦3年(1213)における和田義盛(わだ・よしもり、1147~1213)の北条氏に対する反乱を起こし、その際時重娘は和田義盛の側室であることから一族郎党共に義盛に与しますが武運なく討死、横山氏は滅亡し所領は没収されます。 当然ながら粟飯原氏も横山氏と共に義盛方に属しますが主だった武将は討死、結果本家とともに滅亡したと思われます。 尚横山党の南進は極めて積極的で例えば境川に沿っては上述の粟飯原氏の他矢部氏・淵辺氏(東京都相模原市)等が、更に相模国相模川に沿った地域に海老名氏(神奈川県海老名市)・愛甲氏(同県厚木市)等の活躍が確認されています。
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相模原市の旅行記 相原八幡宮
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相模原市の旅行記 天満宮鳥居 鳥居には武士(もののふ)が崇める古びた...
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相模原市の旅行記 保存ケヤキ 境内左側には相模原市指定保存樹としてケ...
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相模原市の旅行記 保存ケヤキ
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相模原市の旅行記 相原八幡宮拝殿 ケヤキの大木の横に八幡宮拝殿が在り...
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相模原市の旅行記 神楽殿 平成17年新築された神楽殿が境内東側に控え...
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相模原市の旅行記 八幡宮拝殿 こじんまりとした拝殿には「八幡宮」と刻...
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相模原市の旅行記 相原八幡宮説明 拝殿右側壁面に貼り付けられています...
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相模原市の旅行記 稲荷神社鳥居 境内には明治42年に設置された稲荷神...
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相模原市の旅行記 稲荷神社拝殿
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相模原市の旅行記 高座川石標 当地域はかつては相模国高座郡で郡内を流...
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相模原市の旅行記 境川 東京都と神奈川県を分ける境川が本殿北側を流れ...
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相模原市の旅行記 高座川石標近景 ふりがなが振ってありますが「たかく...
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相模原市の旅行記 相原八幡宮境内風景 拝殿から境内風景を捉えます。
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相模原市の旅行記 朽ちたケヤキの姿
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相模原市の旅行記 相原八幡宮境内風景
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相模原市の旅行記 相原起番地石標
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相模原市の旅行記 相原起番地説明 横山氏が当地にて粟飯原氏と名乗り、...
相模原市の旅行記
相模原 ,はやぶさカプセル JAXA相模原
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サンダル
相模原市の旅行時期
2010/07/30~" . 2010/07/30
旅行テーマ 【歴史・文化・芸術】

はやぶさカプセル JAXA相模原

はやぶさカプセルの特別展示を見に相模原市立博物館に行った。隣接している宇宙科学研究所JAXA相模原の特別公開も同時に見る。 今日と明日31日は、淵野辺にあるこの一帯は、夏休みの家族連れだけでなく、中高年の宇宙好き、それに私のような、はやぶさに特に興味のある人達でどこも長蛇の列。 はやぶさはみんなの夢をかなえるため、途中、行方不明になりながらも、7年かけて、けなげに地球に戻ってきた。 そんなはやぶさのカプセルを見るためだったら、2時間の待ち時間など、たかがしれてる。そんな人たちが楽しく待っていた。 本当に研究者の皆さんの実が結んで良かったですね。 全天周映画 HAYABUSA back to the earth(50分)は、8月31日まで上映延長とのこと、相模原市立博物館で上映中。感動的な映画です。
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相模原市の旅行記 横浜から横浜線で約40分、淵野辺駅から徒歩15分左側...
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相模原市の旅行記 左側の列はカプセル、右側は映画、中央の満席表示は川口...
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相模原市の旅行記 川口淳一郎はやぶさプロジェクトチーム マネジャーのセ...
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相模原市の旅行記 博物館に展示のはやぶさ。十分の一。
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相模原市の旅行記 はやぶさが行って帰ってきた、将来地球に接近するかもし...
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相模原市の旅行記 この辺りで一時間待ち。
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相模原市の旅行記 博物館入り口、はやぶさカプセルはすぐそこ。
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相模原市の旅行記 博物館内プラネタリウムで上映のHAYABUSA ba...
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相模原市の旅行記 カプセルは撮影不可。
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相模原市の旅行記 展示写真。はやぶさ帰還の光跡。素晴らしい!
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相模原市の旅行記 博物館での一連のはやぶさを見たあと。隣の宇宙科学研究...
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相模原市の旅行記 敷地は広く、大学構内って感じ。
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相模原市の旅行記 第1会場から第5会場まで。学園祭って感じ。
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相模原市の旅行記 MVミューファイブロケットの実機。はやぶさを打ち上げ...
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相模原市の旅行記 キャンパス、屋上には大きなアンテナ。 
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相模原市の旅行記 第1会場のはやぶさの実物大。
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相模原市の旅行記 構内には、いろいろな研究室があるようだ。
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相模原市の旅行記 第4会場。
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相模原市の旅行記 運用中の赤外線天文衛星”あかり”のプロットモデル。
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相模原市の旅行記 イカロスの宇宙ヨット イカロスセイル。
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相模原市の旅行記 厚さ7.5ミクロン(1000分の7.5ミリ)のセイル...
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相模原市の旅行記 これは宇宙で栽培出来る?ほうれん草。
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相模原市の旅行記 宇宙では、星は瞬きしない。 宇宙を知って、地球の素...
相模原市の旅行記
相模原 ,相模野基線を訪ねる(三角点探訪シリーズ)
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3_Diego
相模原市の旅行時期
2006/11/18~" . 2006/11/18
旅行テーマ 【歴史・文化・芸術】

相模野基線を訪ねる(三角点探訪シリーズ)

今日は相模野基線を訪ねました。 最初は南端点です。 とあるお医者さんの敷地内にあります。 こういう土地を買うときは何か条件があるのでしょうか??
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相模原市の旅行記 北端点。 ここは相模原市の史跡に指定され、保護され...
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相模原市の旅行記 北端点
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相模原市の旅行記 お!偶然にも通り掛りました。 新型車両!ドアにもラ...
相模原市の旅行記
相模原 ,JR横浜線・淵野辺駅ホームから見るデザイン・・
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gami
相模原市の旅行時期
2006/05/20~" . 2006/05/21
旅行テーマ 【歴史・文化・芸術】

JR横浜線・淵野辺駅ホームから見るデザイン・・

駅のプラットホームから見る風景・景色は所によって様々である。 今回はJR横浜線の淵野辺駅からのデザイン景色を探ってみた。 露出した設備的配管などが無意識?の造形をつくり出し・・じっくり 観察・鑑賞したいほど面白い・・
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相模原市の旅行記 排気や吸気のダクト関係・・ 金属の加工が造形的で面...
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相模原市の旅行記 これは、パイピング・・ 給水・排水・給湯・冷媒・蒸...
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相模原市の旅行記 電気系統のダクトのよう? うまく、面の分割がなされ...
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相模原市の旅行記 淵野辺駅のホーム・・ 線路を跨ぐ建築が後から造られ...
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相模原市の旅行記 駅脇の駐輪場。 屋根がリズミカルで、軽快である。 ...

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相模原市  歴史・文化・芸術 の旅行記


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